スパイダーが生まれるまでの経緯
〜ハンドボールと私の歴史〜
私は中学・高校・大学とハンドボール1色で歩んできました。
その中で、いい経験も悪い経験も含めてハンドボールというスポーツを通じて人格形成されてきました。
自分自身という人間はハンドボールを通して育てて頂いたのです。
ある種勝ち負けを重視する世界を続けていく過程で、結果を残せたほんの一握りの優秀な選手だけが活躍の場を与えられていき、その他大勢は脱落していくことは厳しい勝負の世界ですから仕方がないものと現役当時は感じていました。
そして多くの仲間が一人、また一人と去って行きもしました。
そういった状況下で、大学時代後半から私はハンドボールの指導者としての道を模索していました。
▼順天堂大学時代(後列の右から3番目の背番号8が私です)

そんなある時、私は地元小学校の子供達の指導をさせて頂く機会を与えて頂きました。
その指導者としての経験の中で、子供達に教えてもらったことが二つあります。
一つは、スポーツというものはチーム全員がその競技を選択して、同じ目的に向かって皆が同じ努力をしてきて頑張っていくという過程の中で、「全員が楽しむ」ということが一番の根本なのだということ。
もう一つは、改めてハンドボールという競技が楽しいものだったのだなということです。
それからは、そんな気持ちに気付かせてくれた子供達への指導を、私なりに一生懸命しました。
そして指導者としての道への思いもより強いものになっていました。
当時(学生時代)は指導料が交通費のみというような状況でしたが、毎日の食事がまかなえれば、それで満足でした。
それくらいハンドボールが好きで、そのことに気付かせてくれたのが純粋な子供達だったのです。
そんな中、指導していた子供達のチームは日増しに強くなっていったのですが、同好会だったのでユニフォームもない状態でした。
私は子供達が頑張っているので何かをしてあげたいと思ったとき、当時の自分にはお金がなかったので、手作りのチームTシャツを作ってあげることにしました。
あれやこれやとデザイン等を試行錯誤しましたが何とか満足できるチームTシャツが出来ました。
そのチームTシャツを子供達は、すごく喜んでくれて私が指導を離れる3年間もの間、ずっと捨てることなく着続けてくれました。
最後は、ボロボロでしたが、チームTシャツが子供達のモチベーションを上げ、団結力も増し、子供達は結果として私に県大会優勝という恩返しをしてくれました。

私が初めて指導させて頂いた
千葉の富里北中学校の生徒達。
初めて作ったユニフォームを
皆、喜んで・・・、ボロボロに
なるまで、使ってくれました。
そして、子供達は多くのことを、
私に教えてくれました。
少し私の過去に戻りますが、それは自分がハンドボールを始めた同じような時期のことですが、私の少年時代のハンドボールのチームはハンドボールの名門校というか強豪チームでしたので、強くて当たり前、勝って当たり前。勝っても試合内容が悪ければ怒られる・・・という環境でした。
ですので、ハンドボールをしているというより、やらされていたという感覚が強かったです。

← 四日市市立西笹川中時代
雨が降って練習が中止になればいいのに・・・。そんな気持ちになったのは1回や2回ではありませんでした。
それがある時(自分達が最上級生だった時)、すごく面白いくらい勝ち続けていき、実力もどんどん付いていくのがわかるという状況の中で、やらされていた感じから自分達で自主的に練習をするようになったのです。
その時にチームの団結力というか結束力ができ、皆が自然に自分達のオリジナルのハンドボールグッズを揃えようということになり、チームTシャツや同じカラーの靴下を揃えて大会に臨みました。

← 岡崎城西高校時代後列右から3番目が、私です。
結果もさることながら、その時に感じたのはハンドボールに限らず他のスポーツにしても、とにかく一つのことに集中して皆で同じ目標に向かうときは、自分達だけのユニフォームやグッズというものが、ものすごく力を与えてくれるものなのだということでした。
そのようなわけで、私の少年時代の過去と大学時代の指導をしてきた子供達の県大会優勝を果たした時がオーバーラップし、ハンドボールグッズがハンドボールの楽しさを引き出すことに気付き、自分はハンドボールを中心にしたTシャツやグッズ関係の仕事をしながら子供達の指導ができたらいいな・・・と思うようになっていました。
時は流れ、私も子供達の指導者としての生活も4年の月日が流れ、26歳になっていました。
当時、子供達のご父母の方々は三重の地から遠い千葉の地で一人暮らしをする私に対して親子のように可愛がってくれていました。
そんなご父母の方々が私のことを心配してくれて、そろそろ指導者としての立場では生活が成り立たないのだから、ちゃんと就職をしたらどうかと言ってくださいました。
その時、ご父母の皆さんの多くの方々が涙して、まるで子離れを決意した親のように「指導者として、ずっと続けてほしいのだけれど、江守君の将来を思うと、いつまでもあまえるわけにはいかない。長い間ありがとう」と言って、私を送り出してくれました。
就職は製薬会社でした。
なぜ製薬会社といいますと、実家が薬局をしていましたので、ここまでこれたのも両親のおかげですし、地元三重県に帰ったときには少しは役に立つだろうということで親孝行のつもりで両親と共通する話題の製薬会社にしたのでした。
就職後も合間をぬって、ハンドボールの指導を続けてはいましたが、やはり仕事が優先になり、ハンドボールの生活がどんどん薄れていきました。
その後、日増しにハンドボールへの思いが強くなり、思い切って製薬会社を退社することにしました。
しかし、指導者の道では食べていけないことはわかっていました。
ですので、大学時代に喜んでもらえたTシャツ等の製作で身を立てることを決意しました。
たまたま県内で活躍されていたオリジナルTシャツ等をメインにされている会社で修業をさせて頂けることになり、お店を任せせて頂くことにもなり5年間経験を積ませて頂きました。
その間、小・中・大学が同級生だった三重県の教員をしていた友人と再会しました。
彼は教員として自分の教え子である女子チームを3年間という短期間で、全国大会で初出場、初優勝という偉業を成し遂げていました。
彼が三重県のハンドボールのレベルを押し上げてくれていたのです。
この彼との再会が、私の大好きなハンドボール関係の仕事への接点となっていきます。
彼は、前述のとおり、中学校の教員でハンドボール部の顧問としてハンドボールを教えていました。
そして、彼との交流を重ねる中、三重県で行われる西日本の100チームが参加するドームカップの大会記念Tシャツの製作を依頼してくれたのです。
その時の参加中学校の生徒さん達が、とても喜んでくれたのです。
そして私がその大会で感じたのが「子供達にハンドボールに対する夢や憧れがまだまだ足らない!もっと子供達が楽しんでハンドボールができるアイテムがあれば・・・」ということでした。
この時にハンドボールブランドとしてのスパイダー・ジャパンを立ち上げました。
2005年現在、ドームカップは8回を数える大会に成長していますが、第6回大会の頃に実績を評価して頂き、日本ハンドボール協会から、アテネオリンピックに向けての日本ハンドボール協会公式キャラクター製作の依頼を頂きました。

そして、神戸で行われたアテネオリンピック予選大会であるアジア大会でも公式グッズとして採用して頂きました。

〈画像提供〉 日本総輸入販売元 日本スポーツコート株式会社
その後、小学校〜高校、大学や各実業団、ドイツのクラブチーム(クラブチームの写真を挿入)もスパイダー・ブランドを採用して頂くようになりました。
実は、このクラブチームとの接点を設けて頂いたのは、高校の先輩でもあり、ご近所だった元日本代表ゴールキーパーの橋本行弘先輩でした。(橋本先輩は、1997年の日本で開催された世界選手権での最優秀選手です。)

スパイダーオリジナルユニフォームを着用して活躍しているドイツのクラブチーム「ビショフツハイム」の選手の皆さん。
現在は、Tシャツだけでなく、チームカラーを活かしたオンリー・ワン商品の開発に力を入れて日々努力させて頂いています。
以上が私自身の歴史とスパイダー・ブランドが生まれた経緯です。
最後まで、私のつたない文をお読み頂きましてありがとうございます。
最後に、多くのハンドボール関係者の方々からご期待とご要望を頂く日々ですが、ハンドボール業界を活性化したいという強い気持ちを抱き、多くの方々にスパイダーブランドで活躍して頂きたいという思いで、このホームページを立ち上げさせて頂きました。
Professional Handball Style !
それがスパイダー・ジャパンの願いです。